2011年11月1日

昭和19(1944)年11月1日 米軍撮影の航空写真

米軍撮影航空写真 タテ47.4㎝、ヨコ25.0㎝


昭和19(1944)11月1日、サイパン島に展開した米軍第20航空軍のF‐13(-29を改造した写真偵察機)が、はじめて関東地方の上空に高高度で侵入し、各地で航空写真を撮影しました。


米軍の写真偵察機F-13


それ以降、サイパンから飛び立ったB-29による空襲が本格化しました。


この日は、館山市も偵察対象となり、高度32,500フィート(約9,896m)から撮影した航空写真が、アメリカ国立公文書館に保管されています。



現在の北条地区、館野地区


現在の館山地区・北条地区・豊房地区



現在の館山地区・北条地区
左上にあるのが館山海軍航空隊水上機基地


また旧制安房中学校(現在の安房高等学校)の日誌には、当日、空襲警報が発令されたことが記されています。


サイパンは、第1次世界大戦の結果、大正9(1920)年に国際連盟の委任統治領となり、日本が管理していましたが、昭和19年6月に米軍をはじめとする連合国軍が上陸し、翌月、旧日本軍のサイパン守備隊は玉砕しました。


小林芳雄さん(昭和2年生)は、昭和18年3月10日にサイパン郵便局に赴任されましたが、連合国軍の上陸後捕虜となり、民間人捕虜収容所に収容されました。


終戦後の昭和20年8月末、米軍は民間人捕虜に対して、B-29の基地であったアスリート飛行場を案内しました。


その時、小林さんが、格納庫内でこっそりと拾ったのが、上の航空写真です。


F‐132機が、アメリカ本土からはじめてサイパンに飛来したのは、同年1030日のことです。


このうちの1機「トーキョー・ローズ」が、11月1日にサイパンから約24,000㎞を飛行し、初の東京偵察を行いました。



F-13 トーキョー・ローズ

同機が持ち帰った7,000枚以上の鮮明な航空写真が、以後の空襲の参考資料となり、同年1124日にB‐29が初めて東京を空襲するまで、偵察飛行は17回実施されました。


米軍の動きに旧日本軍も対応し、B‐29の東京初空襲に対する最大の反撃が、同年1127日に行われました。硫黄島から零戦12機などが飛び立ち、約1,000㎞離れたサイパンのイスリイ(アスリート)飛行場などを攻撃し、B‐293機を完全破壊、2機を破壊しました。


この零戦の部隊は、同1126日に館山海軍航空基地から硫黄島に進出した第252航空隊の「サイパン特別銃撃隊」で、後に「第1次御盾特別攻撃隊」名付けられ、全員が未帰還でした。

米軍の硫黄島侵攻作戦は、昭和20年2月19日に開始されましたが、これに先立ち同年1617日、米海軍空母の艦載機延べ約1,400機が、関東地方の陸・海軍の航空基地に襲来し、館山海軍航空基地も攻撃されています。



米軍撮影航空写真の館山海軍航空基地部分


この攻撃は、米軍が硫黄島作戦の実施にともない、旧日本軍の反撃を封じるために実施したものでした。


この航空写真の裏面にメモがあり、Feb14-1945 at Saipan 、サイパンから硫黄島を経て、伊豆諸島を北上すると、東京湾の入口に館山があると書かれているような地図などが書かれています。



米軍撮影航空写真の裏面にあるメモ



攻撃対象が館山海軍航空基地に限定されていること。また、昭和20年2月14日にサイパンでメモが書かれたことから、同1617日に館山海軍航空基地を攻撃した米海軍のパイロットが所持していた航空写真である可能性を考えることができます。