昭和20(1945)年8月30日の午後2時5分、神奈川県厚木飛行場。
専用機「バターン号」(ダグラスC-54輸送機)から、焦土と化した日本に降り立ちました。
日本が、アメリカをはじめとする連合国に降伏したのが昭和20年8月15日。
アメリカのトルーマン大統領は、それに先立つ1945年8月13日、マッカーサーを連合国軍最高司令官に任命しました。
マッカーサーは、
「メルボルンから東京まで、思えば、その道は長かった。長い長い、そして困難な道程だった。しかし、これで万事終わったようだ。」と、
第一声をあげました。
このとき撮影された、
マッカーサーが細いコーンパイプを咥えてタラップを降りる写真(『ライフ』カメラマンのカール・マイダンス撮影)が、日本の敗戦や連合国による日本占領を象徴する1枚として、しばしば用いられます。
厚木飛行場は、現在、アメリカ海軍と日本の海上自衛隊が共同使用し、米海軍厚木航空施設と海上自衛隊厚木航空基地が置かれています。
普段は入ることができないのですが、
米海軍厚木航空施設での日米親善春祭り(スプリングフェスティバル)が開催されましたので、基地の中にあるマッカーサーガーデンを社会科見学しました。
マッカーサーガーデン |
ダグラス・マッカーサーの銅像 |
マッカーサーと館山の直接のつながりはありませんが、
平成16年8月22日(日)、戦争遺跡保存全国シンポジウム第8回館山大会で、
鈴木文郎さんが、「マッカーサー機撃墜計画を中止させた使者」という講演を行いました。
講演の要旨は、次のとおりです。
・昭和20年8月18日、午前9時10分、大本営本部航空総軍兼航空本部付ロ号班員だった23歳の鈴木さんは、大本営本部の使者として東京湾要塞司令官以下の要塞配備部隊を説得するという重大な任務を命じられた。
・日本の降伏を不服として、館山市船形に戦闘司令所が置かれていた東京湾要塞指令部が、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥の搭乗機を、東京湾上で撃墜しようと計っていた。
・大本営本部はこの動きをいち早くキャッチし、鈴木さんが「撃墜計画を中止せよ」との大本営本部の命令書を携え、東京から軍用車で館山市に急行した。
・同時に、大本営本部は電話で東京湾要塞司令官の説得にあたり、説得が成功した。
・この経緯を知る人は、当時、大本営でも当事者のほか数人しかいなかった。
マッカーサーの乗った「バターン号」は、沖縄の伊江島で給油をした後、神奈川県の厚木飛行場に着陸しています。
厚木飛行場は、東京湾の西側にあります。
西から飛行してきて、そこに着陸しようとする航空機は、どの風向きでも、東側の東京湾上に入ってくることはないのではないか?という疑問も、湧いてきます。
しかし、「この経緯を知る人は、当時、大本営でも当事者のほか数人しかいなかった」という証言のとおり、歴史的事実の検証は、極めて難しいようです。
戦後67年。
日米親善春祭りでは、多くの家族連れが基地に入場し、イベントを楽しんでいました。
海上自衛隊US-2(第71航空隊)
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展示飛行の後、機体洗浄をする海上自衛隊P-3C(第3航空隊) |
米海兵隊CH-46E(HMM-265) |
米海軍E-2C(VAW-115) |
米海軍F/A-18F(VFA-102) |
米海軍EA-18G(VAQ-141) |