2011年9月30日

シリーズ社会科見学9 青木繁生誕の地-福岡県久留米市 その4「坂本繁二郎生家」

青木繁生誕の地-福岡県久留米市シリーズの最終回。

「坂本繁二郎生家」を紹介します。


坂本繁二郎
久留米市指定有形文化財「坂本繁二郎生家」パンフレットより転載


坂本繁二郎(1882~1969)といえば、明治37(1904)年7月に東京美術学校を卒業した青木繁が、布良を制作旅行で訪れ約1ヶ月半滞在した折に、連れ立った友人の一人として、私たち館山市民にとってなじみ深い人物です。


「帽子を持てる女」、「放牧三馬」など数多くの作品を制作し、昭和31(1956)年に文化勲章を受章しています。


亡くなった年に刊行された『私の絵 私のこころ』(日本経済新聞社 1969年10月)に、繁二郎はこう記しています。


あるナギの午後、私は近くの海岸で壮大なシーンに出会いました。年に一度、二度、あるかなしやの大漁とかで船十余隻が帰り着くや、浜辺は老いも若きも女も子供も、豊漁の喜びに叫び合い、夏の日ざしのなか、懸命の水揚げです。私はスケッチも忘れただ見とれるだけの数時間でした。


夜、青木にその光景を伝えますと、青木の目は異様に輝き、そこに「海の幸」の構想をまとめたのでしょう、翌朝から大騒ぎのうちに制作がはじまりました。


他の三人はもっぱら手伝い役。こちらの迷惑などはお構いなしで、モデルの世話だ、画材の買い入れだと追い回されました。青木独特の集中力、華やかな虚構の才には改めて驚かされましたが、あの「海の幸」は絵としていかに興味をそそるものとしても、真実ではありません。大漁陸揚げの光景は、青木君は全く見ていないはずです。


現実に情景がまるで異なり、人も浜も海も実感とは違っています。彼は私の話を聞き空想で描いたのです。実際は船から降ろす小魚は女子供がざるに受け、大魚はわたを捨てたのを、血をしたたらせながら背に荷うのです。すさまじいばかりの色彩と動の世界がそこにあったのです。青木がそれをじかに見ていたら、もっと絵は違ったものになっていたでしょう。


坂本繁二郎は、高等小学校時代に青木繁と席を並べ、ともに森三美の画塾に通い、洋画の道へと進みました。


青木と坂本は、こう比較されます。青木は早熟、坂本は晩成。青木は動、坂本は静。




坂本繁二郎生家が、久留米に唯一残る武家屋敷として、久留米市有形文化財(建造物)に指定され公開されています。



坂本繁二郎生家



坂本家は代々、久留米藩に150石の御馬廻組として仕えた家でした。建物は、茅葺と瓦葺が結合した一部2階建てで、居住空間と接客空間がわけられた武家屋敷の特徴をよく残しています。


入口の説明看板

坂本繁二郎生家は、平成14年に個人が久留米市に寄贈し、平成18年度からの保存整備事業にあたり建物が解体・調査されました。


パネル「坂本繁二郎生家の解体から復元まで」

その結果、建築年代は三時期に分かれ、「座敷・次の間」、「表座敷」、「台所」の順序で建てられ、台所からは明治7(1874)年の棟札が発見され、残る部分が江戸時代後期(1800年代)のものであることがわかりました。


座敷

表座敷は展示スペースとして繁二郎に関する資料が展示されています

台所

続いて発掘調査が行われ、青木繁が居候したといわれながら、後に解体されて規模がわからなかった茶室の礎石跡が確認されたことから、茶室と仏間が復元され、彼らが描いたといわれる襖絵(複製)が展示されています。



復元された茶室
青木繁は明治42(1909)年、ここに3ヶ月間居候しました




襖に青木が描いたといわれる絵の複製



仏間にある襖絵「節分」
作者が青木繁か坂本繁二郎か見解が分かれています


建物面積は243.3㎡、敷地面積は1,492.88㎡。




平成23年3月の九州新幹線鹿児島ルート全線開業を前に、久留米市が国土交通省のまちづくり交付金を活用し、約3億7千万円の事業費により復元を進め、平成22年5月1日から公開されています。



正面に見えるのが九州新幹線の久留米駅


ここでも町内会の皆さんが、受付や清掃等の管理事務を行っていました。


残念ながら、ここでタイムアップ。
久留米から、次の目的地に向かわなければなりませんでした。


是非とも訪れたいと考えていた「青木繁の墓」「けしけし山の青木繁の碑」は、次回の訪問時にポタリングしたいと思います。




久留米市日吉町の順光寺にある「青木繁の墓」




久留米市山本町のけしけし山の「青木繁の碑」

今年の3月に青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会の皆さんが、青木繁没後100年久留米ツアーを実施され、青木繁旧居保存会の皆様との交流を育まれています。



是非、ご覧下さい。  blog布良・相浜の漁村日記



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2011年9月29日

シリーズ社会科見学8 青木繁生誕の地-福岡県久留米市 その3「石橋文化センター」

青木繁生誕の地-福岡県久留米市シリーズの第3回目。

久留米市野中町にある「石橋文化センター」を紹介します。


石橋文化センターには、バラやツバキ、ショウブ、ケヤキ、イチョウなど四季折々の花が彩る広大な庭園があり、石橋美術館をはじめ、音楽ホールや図書館を備えた複合文化施設です。



正門入口

楽水の池

石橋文化センターは、株式会社ブリヂストンの創立25周年を記念し、創業者の石橋正二郎が、同社の発祥の地である久留米市に建設し、寄贈したものです。


(財)久留米観光コンベンション国際交流協会発行
久留米物語『ブリヂストン創業者石橋正二郎と石橋文化センター』


久留米市に明治22(1889)年生まれた石橋正二郎は、明治39年、17歳で家業の仕立屋を継ぎました。

後に地下足袋を発明し、全国的な企業へと発展させました。

その後、アメリカ製品が当たり前であった当時、自動車の国産タイヤをつくり、昭和6(1931)年に、ブリッヂストン株式会社(現在の株式会社ブリヂストン)を創立しました。

太平洋戦争の終戦後、住まいを東京に移していた正二郎は、久留米にやってきて驚きました。その時の思いが残されています。

久留米市は1945(昭和20)年8月11日の空襲で全市の三分の二が焼野原となり、多くの人びとはバラックに住んで生活に追われ、ただ繁昌しているのは不健全な娯楽だけで、これが青少年の思想に及ぼす影響はまさに憂うべきものであった。

その後、欧米視察でアメリカやヨーロッパの文化に触れた正二郎は、あるヒントを得ました。

フランスの「文化の家」という施設は、音楽会場や美術館、そして劇場などが集まったもので、子どもから大人まで、いつでもそこに行けば楽しむことができました。

正二郎は、それにならって「文化を振興させたい」と考えます。

昭和27(1952)年、東京にブリヂストン美術館を開館した正二郎は、開館式の挨拶で次のように述べています。

私のコレクションの事を申上げますが、今日有名な坂本繁二郎画伯が当時17~8歳の頃私達小学生の図画の先生でありました。その後坂本さんは東京に去られ、30年を経て再び郷土久留米に帰られて、ちょうど私の住居の櫛原町内に居を構えられ、爾来昵懇にしております。

その坂本さんから、我々の先輩青木繁は、大天才画家で郷土久留米の非常な誇りである。その作品も久留米地方に多く散らばっているが、将来残らぬような事があっては残念で、何とか集めてもらいたいと言われて集めたのが私の絵画蒐集の始りで、その後昭和10年、私は居を東京に移し、更に青木繁の画の蒐集は青樹社に依頼し、1枚の絵に何年も骨折って手に入れたものもありまして、代表的作品は一応揃ったと思います。


石橋正二郎は、昭和28(1953)年頃から、「文化センター」建設の計画を立てて土地を買い、準備を進めました。自らペンを持ち、美術館や花壇、体育館などのアイデアを図面に描いています。


昭和31年に石橋文化センターは開園。






その中心施設が、石橋美術館です。


石橋美術館本館


石橋美術館のコレクションは、日本近代の洋画として、明治の洋画・青木繁、大正・昭和の洋画・坂本繁二郎の作品のほか、日本・中国の美術作品として、書跡・絵画・陶磁器・漆器などがあります。


8月にブリヂストン美術館で会った青木繁の《海の幸》に、ひょっとしたら再会できるかもと、ほのかな期待を抱いていましたが、まだ、展示はされていませんでした。


現在開催中の「野見山暁治展」(9/1~10/16)の会期終了後に、石橋美術館で再び会うことができるとのことでした。


石橋文化センター内には坂本繁二郎の旧アトリエもあります。
昭和55(1980)年に、福岡県八女市から移築され、復元されたものです。




坂本繁二郎旧アトリエ


残念ながら、通常は内部を見学することはできず、年に数回特別公開されているとのことでした。


このアトリエは、昭和6(1931)年に、坂本と青木繁の共通の友人であった梅野満雄の援助で、福岡県八女の梅野宅の隣地に建てられたものです。


梅野満雄といえば、

明治37(1904)年、布良で《海の幸》を制作していた最中の8月22日付けで、青木繁は4枚にわたる絵手紙を出していますが、受取人が親友の梅野満雄でした。

そこには、布良の素晴らしさが綿々と綴られ、また、精力的に大作《海の幸》に取り組んでいる青木の姿も描かれています。


房州絵入書簡 東御市梅野記念絵画館蔵
石橋財団石橋美術館他『没後100年 青木繁展-よみがえる神話と芸術』より転載


石橋文化センター正面入口の石壁には、石橋正二郎自筆の「世の人々の楽しみと幸福のために」という言葉が刻み込まれています。




この言葉は石橋正二郎の企業経営の理念でもありました。
石橋正二郎は、鳩山由紀夫元首相の母方の祖父でもあります。

石橋美術館には、私を含め来訪者が多くみられましたが、石橋文化センター内の大多数は、久留米市あるいは近郊からの来園者で、多くの家族連れが、思い思いに休日を楽しんでいる様子が、大変まぶしく見えました。


青木繁の生誕地-久留米“文化力”に圧倒されるばかりでした。


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2011年9月28日

シリーズ社会科見学7 青木繁生誕の地-福岡県久留米市 その2「青木繁旧居」

青木繁生誕の地-福岡県久留米市シリーズの第2回目。


市内のいたるところに設置されている周辺案内のマップ


青木繁を守る〈青木繁旧居保存会〉の皆さんが、全国の青木繁ファンに捧げる「旧居保存」を紹介します。


車1台が通れる細い路地沿いに青木繁旧居はあります。


青木繁(1882~1911)は、久留米市荘島町431番地で、8歳から、芸術の道を志して上京した17歳頃までを過ごしました。


旧居は、青木が多感な少年時代を過ごし、芸術の才能と夢を育んだ場所でもありました。


旧久留米藩士であった青木の父廉吾が、明治23(1890)年に旧居を購入。明治37年に売却されるまで、青木家はここで暮しました。




青木繁旧居


その後、家の持ち主は転々とし、最後は月星化成株式会社(現在の株式会社ムーンスター)の社宅として利用されましたが、老朽化のために空き家となっていました。


一町内会が久留米を動かした


「青木繁旧居保存に、募金金をお願いします。」

平成12年の7月、西鉄久留米駅の構内で、荘島小学校の児童や保護者約70名が募金・署名活動を行いました。

募金箱は、荘島町内の腕自慢がつくった竹筒だったといいます。


西鉄久留米駅

青木繁旧居保存会は平成12年5月に発足し、「青木繁の旧居はわがまちの宝」と考えた荘島南町内会の“まちおこし”の活動がきっかけになりました。


旧居保存の計画は、それ以前も何度か話題になったそうですが、立ち消えになった経緯があり、自治会内では不可能論もあったといいます。


しかし、「子どもたちに宝を残したい」という自治会の呼びかけに、多くの市民や団体、企業が賛同し、たくさんの支援や激励、募金が寄せられたことが、旧居保存の原動力になりました。


平成13年には、月星化成株式会社が久留米市に土地と建物を寄付・譲渡。


久留米市は、(財)日本宝くじ協会の助成も受けて、約7,000万円の事業費によって、建物を一旦解体した後、全面的な復元整備を行い、平成15年3月15日に青木繁旧居は開館しました。






青木繁旧居は、木造2階建、延床面積110.6㎡。調査の結果、明治13(1880)年頃に建てられたとされています。


粘土瓦に漆喰壁の建物からは、明治時代の雰囲気や落ち着いた趣を感じることができます。




座敷(8帖)


茶の間(6帖)には、青木繁の写真パネルや解説パネル、質の高い作品の複製が展示されています。


「海の幸」(右)と「わだつみのいろこの宮」(左)の複製


また、図書資料などが備えられ、落ち着いた気持ちで青木繁と明治時代を感じることができました。



情報コーナー



この青木繁旧居を、ボランティア活動によって管理運営しているのが、青木繁旧居保存会です



青木繁旧居保存会の皆さん
前列右から2人目の方が会長の岩本一さん

前列左から2人目の山口剛さん、後列の山口秀子さんご夫妻は、
9月17日(土)に布良と小谷家住宅を訪問して下さったそうです。


地縁団体である荘島南町内会のみなさんが組織し、ふれあいを大切にしながら、心豊かな地域社会づくりを進めています。







青木繁旧居が開館して8年。
今でも、毎週火曜日に“定例会”を開催されているとのこと。


一般的に、会の目的が達成されると、その後の熱意が継続されないケースが多いのですが、青木繁旧居保存会の皆さんの熱心さは驚きです。



10月9日(日)午後6時~8時、毎年恒例の「お月見会」が開催されます


地道な一歩一歩の着実な積み重ね。

それらがみなさんの夢と知恵で支えられ、久留米市と市民を大きく動かしてきたことがよくわかりました。


青木繁旧居保存会の皆様方


突然、お伺いしたのにも関わらず、長時間にわたって貴重なお話しをお聞かせいただきまして、本当にありがとうございました。


《海の幸》誕生の家である、館山市有形文化財(建造物)「小谷家住宅」の保存・活用を核にした“まちづくり”に取り組む上で、大きな刺激をいただきました。


みなさんとお話しした、


青木繁誕生の地-福岡県久留米市
《海の幸》誕生の地-千葉県館山市
青木繁が福田たねとロマンを育んだ地-栃木県芳賀町、茨城県筑西市




《海の幸》陶板レリーフ
栃木県芳賀町・ロマンの碑河川公園

《海の幸》陶板
茨城県筑西市下館駅北口駅前広場


の本格的な交流が始まることを夢見て...



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2011年9月26日

シリーズ社会科見学6 青木繁生誕の地-福岡県久留米市 その1「久留米城跡と青木繁記念碑」

青木繁が愛した館山市布良。
《海の幸》が描かれた布良には、今でも温かさがあり、美しい景観が広がっています。

明治画壇の鬼才-青木繁を生んだまち福岡県久留米市

その久留米を、ポタリングする機会に恵まれましたので、“じゃじゃーん”!

4回にわけて「青木繁生誕の地-福岡県久留米市を紹介します。


ポタリングの相棒、久留米市観光案内所のレンタサイクル。
JR利用者は、4時間200円で借りられます。

久留米は、福岡県南部の筑後地方にある都市。
人口は約30万人で、福岡県では福岡市、北九州市に次ぐ第3の都市です。

JR久留米駅は、今年3月の九州新幹線全線開業時に、新幹線の停車駅になりました。



JR久留米駅
さすがブリヂストンの企業城下町。巨大タイヤが駅前のシンボル


博多駅からは、在来線の快速列車で約35分の距離です。




JR九州の近郊形811系電車



久留米と言えば、40歳代以上のみなさんには、松田聖子、藤井フミヤ・チェッカーズ、石橋凌などのアーティストを生んだまちとして、馴染みがあるかもしれません。

久留米を代表する産業が“ゴム”。
世界最大のタイヤメーカー、㈱ブリヂストンもこのまちから生まれました。




ブリヂストン工場前のブリヂストン通り





ブリヂストンの創業者石橋正二郎によって、
青木繁の作品の散逸が免れました。



江戸時代の筑後国北部を領したのが久留米藩。約250年間を、有馬氏が治めました。

その居城跡が久留米城跡。久留米は、城下町でもあったのです。


久留米城跡。現在は石垣が残るのみ

筑後川を自然の要害とする久留米城
左に見える建物は、ブリヂストンの工場

本丸跡に建立された篠山神社


久留米が生んだ偉大な芸術家である青木繁坂本繁二郎は、ともに旧久留米藩士の子として生まれました。

久留米城跡に、昭和43(1968)年に建立されたのが「青木繁記念碑」です。


久留米城跡 巽櫓跡にある「青木繁記念碑」


青木繁を偲ぶために、地元の碑建立発起人会が計画をし、東京在住の久留米市出身者や市民からの協賛金によって建立されました。


工芸家の豊田勝秋が青木の自画像をもとに制作
直径1.5mのブロンズ像

青木繁の遺児、福田蘭童の書

『青木繁、その生涯と芸術』をまとめた美術評論家 河北倫明の書
河北氏は、碑建立の翌年昭和44年に京都国立近代美術館長となった


今も昔も、福岡県南部の政治・経済の中心地である久留米




久留米市役所



地域の総合力が、新しい文化を繰り返して生み出すのだと、ペダルをこぎながら、あらためて確認しました。



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