その没後100年を記念して、青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会が、文化庁の「文化遺産を活かした観光振興と地域活性化事業」を活用し、8月27日(土)午後2時から、千葉県南総文化ホール小ホールを会場に、青木繁《海の幸》フォーラムを開催しました。
地元の館山市民はもとより、県北からのお客様も含め定員300名の小ホールが満席となり、第1部 講演「布良という聖地~《海の幸》が生まれた場所」がはじまりました。
トップバッターは、ブリヂストン美術館学芸員の貝塚 健さん。
はじめに、《海の幸》の画面には、空、海、砂浜、10人の男、3尾のサメ、銛が描かれ、砂上に右から左への二列縦隊が組まれ、画面外の左から光線があたっていることを解説されました。
次に、「なぜ、青木繁が布良に行ったのか」、「《海の幸》に関するタイムテーブル」が解説され、青木繁が、明治37(1904)年8月22日付けで福岡・久留米の友人梅野満男に宛てた「房州絵入り書簡」などが紹介されました。
「目撃者が語る《海の幸》」、「《海の幸》の背景」では、坂本繁二郎『私の絵 私のこころ』(日本経済新聞社、1969年10月)などの内容から、
・ 青木が日本の古典からヒントを得て、「海の幸」「山の幸」の二部作を制作する野心を持っていたこと
・ 《海の幸》の構想は、坂本が見た壮大な光景を青木に伝えたところまとめられ、大漁陸揚げの光景を青木が全く見ていないこと
・ 《海の幸》はデッサンして、東京で仕上げられたこと
などが解説されました。
「《海の幸》のイメージソース探し」では、《海の幸》のモチーフに関する研究史を紹介された上で、貝塚氏と島田吉廣氏の神輿説が解説されました。貝塚氏は、安房神社神輿説。島田氏は、布良崎神社神輿説を唱えられています。
続いて、NPO法人青木繁「海の幸」会事務局長の吉岡友次郎さんが、明治浪漫主義時代を駆け抜けた夭折の天才画家 青木繁への想いと、滞在した小谷家を、当時の姿に復元し保存していくことの重要性を熱く語られ、文化財保存運動への参加を呼びかけられました。
第2部 《海の幸》井戸端会議では、島田吉廣さん(布良漁協組合長・布良崎神社神輿世話人)、小谷福哲さん(青木繁が滞在した小谷家)、山口栄彦さん(布良出身・『鯨のタレ』著者)、鈴木聰明さん(館山市観光協会副会長)、石橋鉄也さん(青木繁ひ孫、石橋エータロー長男)、コーディネーターの池田恵美子さんが登壇。
島田吉廣さんは、貝塚健さんの安房神社神輿説に対して、《海の幸》のモチーフ布良崎神社神輿説を力説されました。
青木繁らが滞在した小谷(こたに)家を代表し登壇した小谷福哲さんは、青木らが滞在した明治37年当時5歳だった福哲さんの祖母ゆきさんのお話しを紹介。
ゆきさんは、「(青木らがいたオクフタマには)中に入ってはいけないと言われていたが、唐紙に穴をあげて中をのぞくと、女の人が裸になり絵を描いていた。」と語られていたそうです。
『鯨のタレ 伝統食文化と房総の漁師たち』(多摩新聞社、1999年)で、昭和37年に建立された青木繁《海の幸》記念碑の経緯を紹介された山口栄彦さんは、日本を代表する美術界の先生方と地元・富崎地区の熱意によって記念碑が建てられ、現在まで守られてきたことをお話しされました。
青木繁を曽祖父、笛吹童子で有名な尺八奏者・福田蘭童を祖父、クレージーキャッツの石橋エ-タロ-が父である石橋鉄也さんは、小さい頃、自宅の物置にあった青木繁作品を、父のエ-タロ-さんから絶対に触ってはいけないといわれていたが、ダメと言われれば子ども心に触りたくなり触ってしまったと、ユーモアたっぷりにお話して下さいました。
青木繁《海の幸》への熱い想いと、《海の幸》誕生の舞台となった小谷家住宅を当時の姿に復元し、地元富崎地区活性化のために活かしていこうという熱い想いが込められた、感動のフォーラムとなりました。