2011年8月11日

戦後66年終戦の日特集 館山市の戦跡6 「館山海軍航空隊」その6

館山海軍航空隊赤山地下壕跡。館山を代表する戦跡として市史跡に指定されています。



ところが、この地下壕の建設経緯や館山海軍航空隊の航空作戦との関係などが記録された資料は全くなく、その歴史的な事実は、深いベールに包まれています。

そのため建設時期についても諸説がありますが、ヒントになるのは、旧海軍の防空に対する考え方と体制です。

太平洋戦争後半、旧日本軍の基地は激しい空襲にさらされ、それ以降ようやく基地施設の地下への設置に最大限の努力が払われるようになりました。館山海軍航空隊では昭和18(1934)年の初めにつくられたとされる「館山航空基地次期戦備施設計画」に基づき、防空施設が整備されていきました。

館山海軍航空隊赤山地下壕跡の配置図

旧海軍では専門工作部隊である設営隊が、昭和19年以降本土の各地で、防空施設を突貫工事により建設しています。例えば昭和19年7月、横浜市日吉の慶應大学敷地内で地下壕の建設が始まり、同年9月には連合艦隊司令部がこの地下作戦室に移されました。

また、館山航空基地次期戦備施設計画に基づき建設された地下壕・洲ノ埼海軍航空隊戦闘指揮所は、昭和19年5月に着工し、同年12月に完成しています。


洲ノ埼海軍航空隊戦闘指揮所跡
※一般公開されていません。

以上のことから赤山地下壕の建設は、昭和19年以降のこととするのが順当ではないかと考えられます。

このことは、この地下壕の建設に従事した方々からの複数の証言からも裏付けられ、昭和20年8月15日、終戦の日の午前中まで工事が行われていたとされています。

(その7につづく)