旧館山海軍航空隊の正門と本部庁舎(昭和10年) |
89式艦上攻撃機(昭和10年) |
館山海軍航空隊体操(昭和6年) |
昭和10(1935)年には、後に初めて海を越え、長崎県大村から中国の南京を爆撃した96式陸上攻撃機が、試作機として館空に配備されました。中攻隊は、世界初の渡洋爆撃の前月、昭和12年7月に木更津に移転するまで、館空で開発と訓練が行われました。
96式陸上攻撃機 |
旧日本軍は敵機の攻撃に対して、大正10(1921)年の陸海軍航空任務分担協定により、本土の防空は陸軍が、海軍は軍港や航空基地など、一定の限られた防空を担当するという役割分担がありました。
中国への渡洋爆撃や昭和16年の真珠湾攻撃が示すように、旧海軍には攻撃重視の思想が強かったといわれています。敵の攻撃を受けないという考えは、太平洋戦争開戦時の館空の防空体制が、城山砲台の高角砲4門のみであったことからも窺えます。
昭和初期の城山(館山)。 城山砲台の建設により、頂上部が削られました。 |
しかし昭和17年9月以降、南太平洋パプアニューギニアのラバウル方面で、米軍の空襲により海軍航空基地が非常に大きな被害を受けました。この教訓から、海軍も本格的に防空の強化をはじめました。
昭和17~18年にかけて、海軍は茂原、厚木などで、地下・半地下・随道(トンネル)の構造物を短期間に建設するための実験を行いました。
そして昭和19年以降、本土各地の海軍基地で防空施設の本格的な整備がはじまり、館空では飛行機掩体、赤山地下壕などの建設工事が行われました。 (その5につづく)