館山海軍航空隊赤山地下壕跡 |
赤山地下壕跡は、館山の土地の成り立ちも教えてくれます。 房総半島南部の丘陵は、火山灰が堆積した凝灰岩質の砂岩や泥岩など、 やわらかい地層が重なり合い形成されていることがわかります。 |
過去の地震の痕跡である断層をみることができます。 |
しかしこの地下壕がどのように使われたのか、文書や文献などの確実な資料は、まだ一点も見つかっていません。
この赤山地下壕の建設と同時期に、現在の長野市松代町で、本土決戦最後の拠点として、政府や大本営などが移転される計画で、総延長10.4㎞の地下壕が掘削されました。
松代地下壕象山地下壕跡 |
松代地下壕象山地下壕跡内の削岩機ロッド |
イ号(政府・日本放送協会・中央電話局等)、ロ号(大本営・皇居等)、ハ号(食料庫)と、3カ所に掘り巡らされた 松代地下壕については、防衛省防衛研究所に「松代倉庫新設工事設計図」が残されています。
また、着工が昭和19(1944)年11月11日午前11時であること。翌20年8月15日の終戦まで、約9カ月の間に全工程の75%がつくられたことなどがわかっています。
一方、赤山地下壕の建設経緯や運用計画は、深いベールに包まれています。唯一ヒントを与えてくれるのは、昭和18年の初めにつくられたとされる「館山航空基地次期戦備施設計画」のみです。
この図面の赤山地下壕にあたる位置には、「館空応急治療所」「館空自力発電所」「工作科格納庫」と記されています。
館山航空基地次期戦備施設計画(部分) |
このうち現在一般公開をしている入口部分が、自力発電所の区画に特定できます。そこには、ディーゼル発電機が置かれた据付基礎の跡のほか、電気の放電を防ぐための陶器製の碍子(がいし)が残されています。
館山海軍航空隊赤山地下壕跡内の自力発電所跡 平成14年撮影 |
自力発電所跡内に残る陶器製の碍子(がいし) |
また昭和20年1月以降に、壕内で館山海軍航空隊の事務を行ったという証言や、終戦後、吊り床(ハンモック)が並んでいたとの近隣住民の証言などがあります。
(その8につづく)