2011年8月12日

戦後66年終戦の日特集 館山市の戦跡7 「館山海軍航空隊」その7

全長約1・6㎞の館山海軍航空隊赤山地下壕跡は、第二次世界大戦中に建設された地下壕として、全国的にみても大きなものです。


館山海軍航空隊赤山地下壕跡

赤山地下壕跡は、館山の土地の成り立ちも教えてくれます。
房総半島南部の丘陵は、火山灰が堆積した凝灰岩質の砂岩や泥岩など、
やわらかい地層が重なり合い形成されていることがわかります。

過去の地震の痕跡である断層をみることができます。

しかしこの地下壕がどのように使われたのか、文書や文献などの確実な資料は、まだ一点も見つかっていません。

この赤山地下壕の建設と同時期に、現在の長野市松代町で、本土決戦最後の拠点として、政府や大本営などが移転される計画で、総延長10.4㎞の地下壕が掘削されました。


松代地下壕象山地下壕跡

松代地下壕象山地下壕跡内の削岩機ロッド

イ号(政府・日本放送協会・中央電話局等)、ロ号(大本営・皇居等)、ハ号(食料庫)と、3カ所に掘り巡らされた 松代地下壕については、防衛省防衛研究所に「松代倉庫新設工事設計図」が残されています。

また、着工が昭和19(1944)年11月11日午前11時であること。翌20年8月15日の終戦まで、約9カ月の間に全工程の75%がつくられたことなどがわかっています。

一方、赤山地下壕の建設経緯や運用計画は、深いベールに包まれています。唯一ヒントを与えてくれるのは、昭和18年の初めにつくられたとされる「館山航空基地次期戦備施設計画」のみです。

この図面の赤山地下壕にあたる位置には、「館空応急治療所」「館空自力発電所」「工作科格納庫」と記されています。

館山航空基地次期戦備施設計画(部分)


このうち現在一般公開をしている入口部分が、自力発電所の区画に特定できます。そこには、ディーゼル発電機が置かれた据付基礎の跡のほか、電気の放電を防ぐための陶器製の碍子(がいし)が残されています。

館山海軍航空隊赤山地下壕跡内の自力発電所跡
平成14年撮影

自力発電所跡内に残る陶器製の碍子(がいし)


また昭和20年1月以降に、壕内で館山海軍航空隊の事務を行ったという証言や、終戦後、吊り床(ハンモック)が並んでいたとの近隣住民の証言などがあります。

 (その8につづく)