2011年9月20日

防災の日特集4 「関東大震災と学校の被害」

関東大震災の記録は、当時の写真や新聞、各種報告書によって知ることができますが、そのほか学校に残された記録から、当日の様子を知ることができます。


富崎尋常小学校(現在の館山市立富崎小学校)震災記録


震災記録表紙(館山市立博物館蔵)

震災記録

富崎尋常小学校の記録を、現代文に読み下してみましょう。

(大正12年)9月1日

本日は、始業式のあと授業が2時間終わって大掃除、その後の職員会議中、午前11時50分頃、一度も経験したことがないような強い地震がありました。

全員で校庭に逃げ出ましたが、直立していることができませんでした。あるいは、腹這いをしたり飛んだりしました。

新校舎は意外に振動しませんでしたが、講堂と第二校舎は今にも倒れようとしています。神田先生と補習を受けていた生徒十数名が、校舎裏からかろうじて校庭に出てきました。

みんな、おののき恐れて、この地震の様子などを話し合っているうちに、非常を知らせる鐘を乱れ打つ音とともに、苦しみのために泣き叫ぶ惨たらしい様子が遠方や近くから聞こえてきました。津波のために数多くの建物が流れて失われてしまったと。

海が引いて布良港の海水がほとんどありません。大津波がさらに来るだろうと、付近一帯の人々は生きた心地がしませんでした。

ふと見ると、北の方向あたりに黒い煙がもうもうと天にのぼっています。もしかしたら、大きな山の爆発もあるかもしれないと疑いました。

幸いに本校は、職員・児童に異常がありませんでした。第二校舎と講堂の小さな破損だけでした。重要書類を校庭に運び出しました。

地震後30分して、津波が洲崎方面から平砂浦に攻め入って相浜海岸を洗い、さらに布良港付近を襲いました。



国登録有形文化財「巴橋」

大正12(1923)年の関東大震災で、巴川を逆流した津波は、
すごい勢いで巴橋を飲み込み、上流へと流れ込んでいったとされていますが、
石積みのこの橋は、津波の勢いにも負けませんでした。

そのために富崎村は、地震の被害より、津波の被害が大きく、流失戸数は数十戸、布良区十数戸。倒れてつぶれた家は少なく、絶え間ない地鳴りとともに、地震があったため大地は、薄氷を積むような心地です。


布良の津波の被害の様子

夕暮れになって、館山と三浦半島あたりに火の手が盛んなのが見えます。特に、三浦半島方面に真っ赤な火柱が立っています。月が淡く、下界を照らして月光でみる周辺の様子がものすごいのに、さらにどのような天変が来るのだろうかと徹夜で警戒しました。

富崎尋常小学校は、被害がさほど大きくなかったために、9月19日に授業を再開しました。


わずか2時間で消えた北条小学校の新校舎

大正12年9月1日、北条小学校(当時は、現在の中央公園にありました)では、夏休みも終わり、1,200人余りの児童が始業式を迎えていました。

その日は、児童数の増加によって、慢性的になっていた教室不足を解消するため、待望の新校舎の竣工・落成式が行われる特別な日でありました。

式典は、午前10時30分に無事に終了。北条町長、北条小学校長をはじめ関係者は、万感の想いで落成式に臨んだことと思います。児童みんなが、新しい校舎への期待と喜びを胸に、家に帰って行ったのではないでしょうか。

しかし、その1時間30分後、轟音ととも襲ってきた激しい揺れに、北条小の校舎はあっという間に倒壊してしまいました。長年の苦労の末に、やっと新築なった校舎はわずか2時間あまりで消滅。関係者の落胆の程は大きかったことと思います。



九重尋常小学校(現在の館山市立九重小学校)の仮設校舎

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