6月2日(土)に第1回安房学講座を開催しました。
テーマは安房の頼朝伝説ということで、館山は勿論、各所からご参加頂きありがとうございます!写真も交えたわかりやすい講座で、あっという間に2時間が経ってしまいました。
講師をしてくださった鋸南町歴史民俗資料館の笹生浩樹学芸員には、厚く御礼申し上げます。
頼朝について熱く語って下さる笹生学芸員 |
満員御礼!! |
今回諸事情により参加できなかったという方のために、講座の中で紹介された頼朝伝説を少しだけご紹介いたします!
①竜島サザエの災難
吾妻鏡によれば、石橋山の戦いで敗北した頼朝は安房国猟島(現在の鋸南町竜島)に逃げ延びます。その上陸の際、足元にあったサザエの角が刺さり、怪我をしてしまったそうです。頼朝は幸先の悪い出来事に「サザエの角などなくなってしまえ!」と怒鳴りつけ、以後竜島のサザエには角がないのだそうです。
このように、有名人の一声で特殊な自然物が生まれるという伝説は少なくありません。有名なものには、空海の一声で一年に三度実をつけるようになったとされる「静岡県三沢の三度栗」などがあります。
②牧田の下立松原神社(しもたてまつばらじんじゃ)
頼朝が源氏復興を祈願したとされる南房総市千倉町牧田の神社です。境内には頼朝の先祖を祀ったとされる御霊白幡神社、頼朝の写経を石箱に納めたとされる経塚、頼朝の馬を洗ったといわれる頼朝公馬洗池があります。
この神社には鳥居がなく、入口の木に注連縄がかかっているのが特徴です。これは伝説によると、頼朝が「自分は石橋山の戦いで負けたので、鳥居をくぐるのは恐れ多い」と避けて通ろうとしたため、地元の人々が鳥居を壊してしまい、以後鳥居がなくなってしまったということだそうです。
③三芳(みよし)の進軍経路
南房総市の三芳には、源氏由来とされる地名が数多くあります。なかでも、安房から上総へ向かう途中経過を表すような地名は興味深く、進軍経路を考える際には参考にされています。
五十騎橋:滞在地にしていた安西館の北西にある橋。頼朝が上総へ北上した際、丸信俊が五十騎で頼朝を迎えたため、この名がついたとされています。
百不取(ひゃくとらず):五十騎橋の北にある地域。このあたりで頼朝軍は九十騎ほどになったとされています。「百騎には足らない」という意味で「百不取(ひゃくとらず)」になったそうです。
千騎森:百不取から更に北上したところにある地名。読んで字の如く、頼朝軍が千騎に見えるほど大きなの軍勢になったのが由来とされています。
④木更津の畳ケ池(たたみがいけ)
ここで頼朝が食事をした際、村人が畳を敷いて座らせたことから、この名がついたそうです。また、その食事の際に池の葦(あし)を箸の代わりにしたそうですが、頼朝はうっかり口を切ってしまったそうです。怒った頼朝が葦を投げ捨てたため、それ以来、この池には葦が生えないのだそうです。
皆さんは食事の際に割り箸のささくれで口を切ったとしても、迅速に怪我の手当てをして新しい箸で食事を再開して下さい。間違っても割り箸を投げ捨ててはいけません。「館山市まちをきれいにする条例」ではポイ捨ては厳重に禁止されています。
頼朝は伝説の中でも武士の鑑のように立派に描かれているかと思っていましたが、怪我をすると自分の不注意を棚に上げて無機物に八つ当たりするという意外に短気な性格には驚きました。
また、行く先々で勝手に苗字や土地をあげてしまったり寺を改名したりといった奔放な性格をあらわす言い伝えや、頼朝が地面に刺した箸や柿の枝が大木になったり水が湧き出したりしたという不思議な伝説も多く、総評すると短気だが人あたりは良く、少しだけ魔法使いじみているというのが安房地域の伝説の中の頼朝像だと思います。
もちろん、これらはあくまでも伝説であり、全てが事実に基づくとは限りません。後世に作られたものも少なくないでしょう。しかし、雲の上の存在ともいえる有名な武将が、自分達と同じように足に刺さったトゲに怒っていたと思うと、少しばかり身近に思えるのではないでしょうか。
次回の安房学講座は・・・
7月7日(土) 13:30~
演題:「安房の職人世界」
講師:山村恭子(館山市立博物館学芸員)
会場:館山市博物館本館集会室
※次回だけ会場が異なりますのでご注意下さい。
今後の安房学講座予定などはこちらをご覧下さい。
問い合わせ : 館山市立博物館本館 TEL 0470-23-5212