2011年10月19日

「おがさわら丸」の臨時寄港と思い出の房州航路

昨日10月18日(火)、館山港多目的観光桟橋に貨客船「おがさわら丸」(6,700トン)が臨時寄港しました。


「おがさわら丸」の全長は131m

「おがさわら丸」の竣工は、平成9年2月20日


「おがさわら丸」の旅客定員は1,043名


館山からは34名が乗船し、世界自然遺産に登録された「小笠原諸島」へ向かいました。

館山出港は、昨日(18日)の午後1時20分。父島着は、今日(19日)の午前11時30分の予定。
約22時間の船旅です。





平成22年4月の館山港多目的観光桟橋の完成により、館山の新しい海の玄関口ができましたが、大正8(1919)年に鉄道が開通するまでは、東京と館山の主要な交通路は海路でした。

江戸時代には、館山から江戸(東京)までは、歩くと4日もかかりました。

手漕ぎの船なら1日あれば行けたといいますが、明治11(1878)年、館山の辰野安五郎は、それを「通快丸」という汽船を運行して5時間で結びました。

船形の正木貞蔵も仲間を集めて汽船会社をつくり、明治15(1882)年に「房州丸」を運行しました。

そして、館山・北条・那古・船形に発着場ができ、東京霊岸島から横浜・横須賀・浦賀に寄りながら、大勢の観光客を館山につれてきました。


桟橋と汽船

明治22(1889)年に東京湾を行き来する汽船会社が合併して「東京湾汽船会社」ができると、「通快丸」や「房州丸」「安房丸」など21艘の汽船が行き来しています。


汽船桜丸

大正12(1923)年に初代の「橘丸」ができ、花の房州航路に登場しました。そのすぐあとに関東大震災がおこり、陸路の交通がとだえると、汽船が救援物資を運んで房州の人々を救いました。

「橘丸」は昭和10(1935)年に大型客船として生まれ変わり、戦後も多くの観光客を運びました。


昭和10年できた橘丸

館山桟橋におりる人たち(昭和の初め頃)

昭和38年には水中翼船の東京湾高速船が、東京竹芝と館山の間を1時間半で結びました。


しかし、昭和44(1969)年の鉄道の電化や道路網の整備などで航路は縮小していき、房州の人々に親しまれ観光客を運んでくれた房州航路は、昭和46(1971)年を最後に廃止になりました。


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