2011年10月10日

シリーズ社会科見学11 福岡市博物館 特別企画展「日本とクジラ」その2


福岡市博物館特別企画展「日本とクジラ」の関連事業として開催された「日本とクジラ展」記念シンポジウム

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前日の打ち合わせの後、福岡市博物館・シンポジウム発表者のみなさんと、博多名物“もつ鍋”をおいしくいただきました。

博多駅近くのホテルに宿泊し、シンポジウム当日の朝。

もう一度路線バスに乗り、ウォーターフロントの素晴らしい眺めを満喫!とも思いましたが、福岡市営地下鉄にも乗車してみたいと思い、地下鉄で福岡市博物館に向かいました。


福岡市営地下鉄空港線に乗り入れているJR九州の通勤形303系電車


福岡市博物館

福岡市博物館エントランスホール

当日の最終打ち合わせを終えた後、館内のレストランで昼食です。

メニューは、クジラの竜田揚げ。
特別企画展「日本とクジラ」開催中、20食限定という特別メニューをいただきました。


1,200円のクジラ竜田揚げ。給食で食べていた世代としては、
“高級品”となってしまったクジラに複雑な気分でした

「日本とクジラ展」記念シンポジウムでは、北海道、千葉、和歌山、高知、福岡の5人の研究者が、各地の捕鯨の歴史と文化を紹介しました。

北海道開拓記念館の水島未記さんは、「アイヌとクジラ」

和歌山県太地町立くじらの博物館の桜井敬人さんは、「捕鯨発祥の地としての太地」

高知県立歴史民俗資料館の中村淳子さんは、「土佐捕鯨と万次郎」

今回の特別企画展「日本とクジラ展」の担当者でもある福岡市博物館の鳥巣京一さんは、「西海捕鯨の歴史と特徴」

館山市教育委員会は、「房総の捕鯨」

個別発表の後、コーディネーター鳥巣京一さんの司会により、北海道、千葉、和歌山、高知、福岡のクジラの歴史と文化について、討論を行いました。


ここでは、館山市教育委員会が個別発表した「房総の捕鯨」の歴史について紹介します。


1. 房総で捕れるツチクジラ

(1) 房総には、17世紀から現在に至るまで、チクジラを捕獲してきた歴史がる。

(2) ツチクジラは北太平洋温帯域に生息しており、大陸棚の外縁から大陸斜面にかけての、やや深い海域で見られ
(3) 初夏に房総半島沖に現れ、秋にかけて北海道へ向かってっくりと移動する。

(4) ツチクジラの餌は、ソコダラ類やチゴダラ類などの深海性魚類と、同じく深海性イカ類などで、房総沖では少なくとも1,700よりも深く潜水して餌を取っていることが明らかになって

ツチクジラの全身骨格(千葉県立中央博物館海の分館)


2. 房総における現代の捕鯨

(1) 昭和23(1948)年、南房総市和田町外房捕鯨株式会社が設立され、以来房総沖で捕鯨を行い、現在に至って

外房捕鯨株式会社のキャッチャーボート


(2) 行われいるのは小型沿岸捕鯨決められた種類の小型鯨を、日本政府が独自に管理し設定した捕獲枠に従って捕獲している。

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水産庁の調査


(3) 毎年6月末から8月末の漁期にツチクジラを捕り、和田港に引き揚げて解体を行い、肉の販売や加工、飲食店での提供行ってい

外房捕鯨株式会社の鯨解体場
鯨解体風景

鯨解体風景

(4) 小型沿岸捕鯨基地は国内に4か所和田のほかは北海道の網走、宮城県の鮎川(石巻市)和歌山県の太地である。

3. 房総のツチクジラ-捕鯨

17世紀  千葉県勝山沖を中心に、手投げ銛による捕獲がはじまる

戦後 : 小捕鯨業による捕獲が増え、漁場が三陸、北海  、日本海沿岸へ広がる

1947 :小型捕鯨業は農林水産大臣の許可漁業となる

1952 :年間300頭を超える捕獲、その後捕獲頭数は減少 

1983 :国の自主規制として、年間捕獲枠40頭を設定する

1990 :年間捕獲枠を54北海道網走、宮城県鮎川、 県和田浦を捕鯨基地とする

1999 :日本海系群を対象に、年間捕獲枠8頭を加える

2005 :日本海系群10頭、オホーツク海系群4頭、太平洋系群54頭、計66頭の年間捕獲枠へと見直しを行う


4. 房総における江戸時代の捕鯨

(1)  鯨組-海で勇敢に漁をする者たちのほか、陸の納屋場において解体・加工の作業にあたる者、捕鯨・解体に用いる道具を製作する者など、総勢数百人もの人々で構成された。

アガシ銛
館山市立博物館分館蔵
(2) 房総では、醍醐新兵衛率いる「醍醐組」 が捕鯨を行った。

八代・醍醐新兵衛肖像画
館山市立博物館分館蔵
(3) 醍醐新兵衛は、代々「新兵衛」を名乗って組織的な捕鯨行っ17世紀後半頃に初代定明が突組を組織し、二代目の明廣がそれを完成させた。

(4) 洲崎(館山市)から三崎(三浦半島)以北、鋸山(富津市)から浦賀以南を漁場として、銛などによって主にツチクジラ突き取るという捕鯨を行っていた



5. 房総の古代の人びととクジラ

(1) 縄文時代の遺跡から、イルカ骨、大型鯨の骨やその加工品等もしばしば出土。しかし、実際に漁を行っていたかどうかについては、微妙な問題。
(2) イルカについては、黒曜石が刺さったイルカ骨が出土していること、イルカの解体を行ったと考えられる遺構が見つかっていることなどから漁が行われていた可能性が高いと言え

黒曜石の刺さったイルカ骨(館山市稲原貝塚出土)
原品 慶應義塾大学蔵 複製 館山市立博物館蔵
焼けたイルカの骨(館山市沖の島遺跡出土)
館山市立博物館分館蔵
イルカ解体場と考えられる遺構(千葉市神門遺跡)
写真:千葉市教育委員会蔵

(3) 鯨の漁については根拠が薄弱な状況骨やその加工品が遺跡から出土するのは、寄鯨(よりくじら)を利用したものと考えるのが妥当である。
鯨頸椎(首)骨(市原市西広貝塚出土)
市原市教育委員会蔵
鯨骨製品(市原市西広貝塚出土)
市原市教育委員会蔵

6. 中世房総の「ねずみいるか」

館山市長須賀条里制遺跡から出土した鯨骨
(1) 13世紀頃の井戸から、鯨の頭骨や肋骨、骨歯製品などが出土している。
鯨歯骨製の擬餌針 左:鯨歯製 右:鯨骨製
(館山市長須賀条里制遺跡出土)
財団法人千葉県教育振興財団蔵
マッコウクジラ肋骨(館山市長須賀条里制遺跡出土)
財団法人千葉県教育振興財団蔵
(2) ゴンドウクジラとみられる頭骨は、頂部に人為的に割られた痕跡脳油を採ろうとして割った可能性がある。
ゴンドウクジラ頭骨(館山市長須賀条里制遺跡出土)
財団法人千葉県教育振興財団蔵


(3) 同じ頃の日蓮上人の書簡「鎌倉では『安房の大魚みいるか』から油をとっており、臭い」(『鎌倉遺文』)という記述がある。
(4) 鯨類から油を採取当時の人々が積極的に捕鯨を行っていた可能性がある。


発表した内容は、以上のとおり」です。



皆さんに興味深いのは、『安房の大魚ねずみいるかではないでしょうか。


鎌倉時代には、クジラを“ねずみいるか”と呼んでいたようです。


建治元(1277)年の日蓮上人の書簡(『鎌倉遺文』)にある、「安房国でねずみいるかという大魚が捕れ、鎌倉に送られて家々で油をしぼっているが臭い」という内容の記述。


このことから、クジラ類から灯油用として鯨油が採取され、当時の政治・経済の中心地鎌倉で、庶民が使っていたこと。

また、それらを供給していたのが、安房ということがわかります。

長須賀条里制遺跡からみつかった頂部に人為的に割られた痕跡があるゴンドウクジラの頭骨は、日蓮上人の書簡を裏付けるものとも考えることができます。


このゴンドウクジラの頭骨は、中世館山の人びとが、積極的に捕鯨を行っていた可能性を想起することができる貴重な資料なのです。


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