2013年8月13日

戦後68年終戦の日特集 館山市の戦跡19 「洲崎第一砲台」(その2)

大正14(1925)年から昭和7(1932)年にかけて、東京湾の入口をふさぐようにつくられた4つの砲塔砲台(軍艦の砲を陸上の砲台としたもの)のうち、最後に完成したのが洲崎第一砲台です。


東京湾に配置された砲塔砲台
(学習研究社『日本の要塞』より転載)


旧陸軍の技師で、設計者でもある浄法寺朝美(じょうほうじ あさよし)氏は『日本築城史』で、洲崎第一砲台は昭和3年9月に起工し、同7年10月に築城工事を竣工したと記しています。

旧陸軍は、要塞など防御のための施設を築くことを築城と呼びました。

 洲崎第一砲台は、東京湾口部を一望することができる、館山市西岬地区加賀名集落の東側にある標高40mほどの丘陵上につくられ、大正11年のワシントン海軍軍縮条約で破棄された巡洋戦艦「生駒(いこま)」の主砲45口径30センチカノン砲塔が設置されました。


巡洋戦艦「生駒」
呉海軍工廠建造、1908年竣工、13,750トン、30センチカノン砲4門、20.5ノット。


この砲塔は、横須賀海軍工廠(こうしょう)で改造され、軍艦の巨大な砲塔を陸上砲台に据え付けるためにつくられた、クレーンの吊り上げ能力150トンの陸軍特殊起重機船「蜻洲(せいしゅう)丸」で輸送されました。


特殊起重機船「蜻州丸」
(『東京石川島造船所五十年史』より転載)

分解されて運ばれてきた砲塔は、見物海岸につくられた組立式桟橋から陸揚げされ、臨時に設けられた道路を、砲塔砲台据付のためにつくられた組立式の門型クレーンやウィンチなどにより、標高約40mの高所まで引き上げられました。


要塞築城の想像イラスト
(学習研究社『日本の要塞』より転載)

重量物を引き上げる困難を、『日本築城史』では「身の毛がよだつ思い」と表現していますが、不便な高所になぜ巨大な軍艦の砲塔を設置できたのか。犬猿の仲と言われた旧陸海軍が協働しなければ、こうした砲塔砲台の存在はあり得なかったはずです。

(その3につづく。)


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