2012年8月10日

戦後67年終戦の日特集 館山市の戦跡12 「幕末の海防」

幕末から、太平洋戦争が終った1945(昭和20)年まで、東京湾の入口にある館山は、国の中心である東京(江戸)を守るための重要な場所でした。

そのため館山には、砲台跡や海軍航空隊跡などの戦跡が、今でも数多く残っています

第二次世界大戦が終了して67年。

今年もまた、8月15日の終戦の日が巡ってきますが、昨年から引き続き、館山市内に残る戦跡を紹介します。

今年の第1回目は、「幕末の海防」です。


江戸時代の長い鎖国の間、日本は世界史の大きな潮流から取り残されていました。

18世紀にインドを植民地としたイギリスは、さらに東アジアの制海権を確保するため、日本沿岸への出没が相次ぐようになりました。

このような状況に対処するため、幕府は文政8(1825)年、外国船打払い令を出し、鎖国を守ることを目的に、外国船を撃退しようとします。


「海陸御固御場所附」



幕末の江戸湾(東京湾)海岸防備の体制

東京湾入口の鏡ケ浦(館山湾)では、天保13(1842)年に海岸警備の担当が武州忍藩にかわり、大房岬(南房総市富浦町)に大規模な台場が築かれました。


大房御台場図


弘化4(1847)年には、北条の鶴ケ谷に陣屋が移され、北条海岸にも大砲が据えられました。また、館山藩も高の島に砲台を設置したと伝えられています。

北条陣屋で使われた忍藩陣鐘

一方アメリカは、生糸と茶を輸入するため中国との貿易を重視し、また、北太平洋の捕鯨船のための寄港地とするため、日本の鎖国が大きな障害となっていました。

嘉永6(1853)年、アメリカの戦艦4隻が、ペリーに率いられ、対岸の三浦半島の浦賀に入港しました。いわゆる黒船来航です。

幕府に開国を要求し、翌年の日米和親条約により、下田・箱館の2港開港などが決められました。

そして、安政5(1858)年、日米修好通商条約の締結により鎖国の体制は完全に崩れ去り、嘉永6年に岡山藩の担当に替わった海岸警備の体制は、大幅に縮小されました。

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