2012年8月11日

戦後67年終戦の日特集 館山市の戦跡13 「布良海軍望楼」

外国との交渉で、強力な軍艦を派遣し、その武力を後ろ楯に、交渉を有利に進めることを『砲艦外交』といいます。黒船来航による幕末の開国は、その成功例として有名です。

【参考】 戦後67年終戦の日特集 館山市の戦跡12 「幕末の海防」 


明治時代の日本に、黒船と同じような衝撃を与えたのが、明治24(1891)年、東京湾に来航した清の軍艦「定遠」と「鎮遠」です。当時の我が国に、同様の、最新鋭の巨艦はありませんでした。


明治新政府は欧米の近代国家に肩を並べるため、「富国強兵策」を推進し、朝鮮半島の権益をめぐって、清国(今の中国)と対立していました。


明治27年、日清戦争が始まる直前、全国の海岸の要所に望楼が設置され、沿岸の監視体制がとられました。望楼とは、陸上と艦船との信号、海上の監視などを行った海軍施設で、東京湾口の館山では、布良に設置されていました。



布良阿由戸浜から海軍望楼跡を望む(昭和6(1931)年撮影)


 明治37年、日露戦争が始まると、布良海軍望楼はロシア軍艦の監視体制に入ります。そして同年8月、東京湾口にあらわれたウラジオストック艦隊の監視と、日本の監視艇の通信中継を行っています。

余談ですが、明治37年8月といえば、布良の小谷家に滞在していた青木繁が「海の幸」を制作した時です。


「海の幸」(重要文化財)/石橋財団石橋美術館蔵


同時期の布良のこの2つの歴史的事実。あまり知られていないのかもしれません。


布良海軍望楼は、第一次世界大戦終了後の大正10(1921)年に廃止されましたが、太平洋戦争開戦後の昭和17(1942)年、同じ場所に電波探信儀(レーダー)を備えた布良海軍見張所が置かれました。



太平洋戦争時につくられた布良海軍見張所の地下壕


戦後は、海上保安庁第3管区海上保安部白浜通信局として、船の安全航行のための施設となっています。






◆ 関連記事

・ 戦後66年終戦の日特集 館山市の戦跡1 「館山海軍航空隊」その1 (2011.8.6)
・ 戦後66年終戦の日特集 館山市の戦跡2 「館山海軍航空隊」その2 (2011.8.7)
・ 戦後66年終戦の日特集 館山市の戦跡3 「館山海軍航空隊」その3 (2011.8.8)
・ 戦後66年終戦の日特集 館山市の戦跡4 「館山海軍航空隊」その4 (2011.8.9)
・ 戦後66年終戦の日特集 館山市の戦跡5 「館山海軍航空隊」その5 (2011.8.10)
・ 戦後66年終戦の日特集 館山市の戦跡6 「館山海軍航空隊」その6 (2011.8.11)
・ 戦後66年終戦の日特集 館山市の戦跡7 「館山海軍航空隊」その7 (2011.8.12)
・ 戦後66年終戦の日特集 館山市の戦跡8 「館山海軍航空隊」その8 (2011.8.13)
・ 戦後66年終戦の日特集 館山市の戦跡9 「太平洋戦争末期の館山-アメリカ軍の情報分析」 (2011.8.14)
・ 戦後66年終戦の日特集 館山市の戦跡10 「昭和20年8月15日の館山」 (2011.8.15)
・ 戦後66年終戦の日特集 館山市の戦跡11 「昭和20年9月3日 米陸軍第112騎兵連隊 館山上陸」 (2011.9.3)
・ シリーズ社会科見学12 海上自衛隊館山航空基地開隊58周年記念 ヘリコプターフェスティバル in Tateyama (2011.10.11)
・ 昭和19(1944)年11月1日 米軍撮影の航空写真 (2011.11.1)
・ NHK総合テレビ ドキュメント20min.「硫黄島からの手紙」で、館山海軍砲術学校が紹介されます。 (2011.12.5)
・ 太平洋戦争開戦70年 海軍落下傘部隊発祥の地-館山 (2011.12.8)
・ 戦後67年終戦の日特集 館山市の戦跡12 「幕末の海防」 (2012.8.10)