2011年11月27日

万石騒動三義民命日祭法要

今年も「万石騒動三義民命日祭」が、館野の国分地区で執り行われました。
万国騒動は、今から300年前の正徳元年(1711年)に起こった農民一揆で、「たてやまフィールドミュージアム」には次のように解説されています。
http://enjoy-history.boso.net/book.php?strID_Book=0603&strID_Page=001&strID_Section=05


「はなやかな元禄文化の裏側で、大名たちは多額の借金に苦しんでいました。安房北条藩屋代家の財政再建のために召し抱えられた役人・川井藤左衛門は、地震の隆起で広がった海岸に新田を開き、用水路を切り開いて増産を試み、保護林の木を切って売るなど増収を図っていました。
しかしそれは領民を無謀に使役したうえ、やがて領地の村々に年貢の倍増を命じたため、領民は反発。年貢軽減の嘆願運動を始めたのです。
これは名主3名を処刑する弾圧へと展開しました。領民は老中への直訴をおこない、成功して領民の勝訴となります。この事件は一万石の領内で起こったので万石騒動と呼ばれ、3名主は三義民として今日でも讃えられています。」


11月26日はこの3名の名主が、館山市国分の刑場で処刑された日です。
国分地区ではこの三義民の義挙を後世に伝えるため、毎年この日に法要を行ってきましたが、ちょうど300年目にあたる今年、不思議な出来事がありました。

万石騒動をインターネットで知ったという、横浜市在住の山本克之さんが法要に参加し、山本さんの出身地である山口県にも同様の「二義少年」として伝えられている事件があったことをお話しされました。
この事件は現在の山口県山口市・大内長野地区を舞台に、万石騒動とちょうど時を同じくして起こった事件です。
当時、長野村は毛利藩の重臣・益田家の領地でしたが、家来の悪政で村人は高い年貢と重い賦役に苦しんでいました。その現状を見かねた庄屋の長男、松原清介(当時21歳)と親友の常田角左衛門(当時19歳)は、1711年(宝永7年)、極刑覚悟で藩主に直訴します。
その結果、藩は領地を益田家から没収して直轄領とし、村人は悪政から解放されましたが、当時、直訴は死刑。二人は翌年の正徳元年11月26日、偶然にも安房の地で三義民が処刑されたのと同じ日に、萩の刑場の露と消えたのです。
それ以来、長野村の人々はこの二人を「二義少年」と呼び、国分地区と同様、毎年供養を続け二人の義にあふれた行動を伝えてきました。

山本さんは「二義少年」の子孫にあたるとのことで、先祖が処刑された同じ年の同じ日に三義民が処刑された縁を知り、命日祭に駆け付けたとのことでした。
安房と長州ということで距離的には大変離れた地域ですが、なにやら不思議な縁を感じた命日祭でした。