本日、館山市大神宮にある千祥寺で「大神宮義民七人様330回忌法要」が執り行われ、江戸時代初期に起こった農民運動の犠牲者の霊を弔いました。
戦国時代に安房を治めていた里見氏が1614年に倉吉に改易されると、神戸(かんべ)の村々は幕府領となりその多くは旗本の所領となりました。
大神宮村(現 館山市大神宮)も1672年(寛文12年)から旗本 河野三左衛門の領地となりましたが、翌年から石高400石のうち200石であった年貢が206石あまりに増加された上、農民たちが自由に山に入り薪などをとることも禁止されました。
追い打ちをかけるように1679年(延宝 7年)から3年間にわたって不作が続き、年貢どころか自分たちが食べるのにさえ事欠くありさまでした。
思いあまった15名の農民代表が3度にわたり、江戸のお屋敷に年貢の軽減を願い上げに行きましたが、聞き入れられるどころか田畑、家屋敷を取り上げられたうえ、村を追放となってしまいました。
このため農民たちは、奉行所に訴え出ましたが、一人の農民の裏切りにより、1682年(天和2年)11月11日に代表の7人が処刑され、残された家族も村を追放されてしまいました。
その後、河野氏の支配が約140年続いたため、この事件が表に出ることもなく、河野氏の支配が終わった3年後の133回忌にあたる1814年(文化11年)に供養塔が建立されました。そしてそれもいつしか埋もれてしまい口伝に残るのみとなりましたが、大正11年に千祥寺境内を清掃中、偶然にも地中に埋もれた石台と竿石発見され、それが七人様の墓石であることを確認したため、墓碑を修復のうえ村を挙げて盛大に240回忌法要が営まれました。
また、昭和49年には館山市の文化財に指定されるとともに、この年が300回忌にあたることから、大神宮区をあげて墓碑の改修が行われています。