2011年11月18日

「稲村城跡」の国史跡指定答申について

国の文化審議会は,1118日(金)に開催の同審議会文化財分科会の審議・議決を経て,稲村城跡を,南房総市の岡本城跡とともに,国史跡として指定することについて,文部科学大臣に答申しました。


その結果,官報告示の後に,稲村城跡が,館山市初の国史跡に指定されることになります。


指定の名称 

里見氏城跡(さとみし しろあと) 稲村城跡(いなむらじょうせき) 岡本城跡(おかもとじょうせき)


指定の所在(稲村跡)

館山市大字稲字貴船109番、111番1、111番2、113番、116番1、116番2、117番
同 大字稲字中ノ坪113番1、134番、137番
同 大字稲字西柵575番2、588番2、590番2、593番1、593番2、593番3、593番4、594番、598番
同 大字稲字城山1078番1、1078番2、1078番3、1078番5、1078番6、1079番1
上の地域に介在する道路敷


指定の面積(稲村城跡)  18,148㎡



里見氏城跡 稲村城跡の概要

里見氏は戦国時代から江戸時代まで10代,約170年間にわたり,房総半島南部を拠点とした一族です。房総里見氏は,初代里見義実(よしざね)が白浜城(南房総市)に本拠を構えて以降,その時々の状況に応じて,数次にわたって本城を移動させています。


稲村城は,16世紀前半,3代義通(よしみち)が居城とした城で,4代義豊(よしとよ)が5代義堯(よしたか)に攻め滅ぼされた「天文の内訌(ないこう)」の舞台となった城です。




稲村城跡遠望(北から)


館山平野中央部南辺の丘陵端に位置し,丘陵先端部にある主郭(しゅかく)は,東と南の二辺に高さ約3mの土塁(どるい)を持ち,北と西の斜面は,丘陵の側面を掻き落とし障壁とする切岸(きりぎし)手法を駆使し防御としています。


主郭土塁(北から)

堀切(主郭南部)


主郭の規模や,切岸の範囲は同時期の房総半島の城の中では抜きんでています。


主郭(西から)
切岸

里見氏城跡は,房総半島における中世山城の変遷や,この地域の社会・政治情勢を知る上でも重要な史跡です。


稲村城跡の歴史的価値
1533・1534(天文2・3)年の内乱を契機に,その機能を停止したことから,1533戦国時代後半の手が加えられていない,戦国時代前半の城の姿をとどめています。
主郭の規模や,切岸の範囲が, 同時期の房総半島の城の中では抜きんでています。


これまでの調査の成果(稲村城跡)

昭和58(1983)年度の千葉県教育委員会による「千葉県中近世城跡確認調査」により、歴史資料としての重要性が広く知られるようになりました。この調査では城郭遺構がみられる城山と呼ばれる丘陵を主郭部ととらえ、南へ連続する丘陵を中郭部、それらを東西から包むように延びる丘陵を外郭部と捉えて、所堅固の広大な城郭であるという評価がされました。


平成18~21年度の館山市教育委員会による調査によって、築造当初の主郭を中心とする単郭構造の城が規模を拡大しつつ整備されていたものの、1533、1534(天文2、3)年の内乱によって稲村城跡が途絶したことが確認されました。


史跡の指定範囲(稲村城跡)

今回の指定の範囲は,土塁(どるい),虎口(こぐち),細尾根を断ち切る掘切(ほりきり),土橋などの遺構が集中してみられる主郭部の一部です。



里見氏城跡 岡本城跡(南房総市)の概要

岡本城は,義堯(よしたか)の孫義頼(よしより)が,16世紀後半に本拠とした城です。
現在の東京湾を望む丘陵上に造られ,城郭の規模は,東西約600m,南北約300mに及び,この地域の城のなかでは,抜きん出た規模を持ちます。
中心部分は,3つの曲輪(くるわ)からなり,山頂の主郭の北東に広がる曲輪は,港としての機能を持っていたと推定されています。

岡本城跡近景
    
    

岡本城跡北側尾根から南側にある大房岬を望む